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右手で描いた暇つぶし  語り部田宮My小説を載せていきます。ただ、それだけだと寂しいので、ぼくが日々感じたことや考えたことを徒然なるままに語りますね。 

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評論:小林和之『「おろかもの」の正義論』

   ↑  2011/08/10 (水)  カテゴリー: 感想等 ※時々ネタバレ注意報
 どうも田宮です。

 今日は非常に暑く、これぞ夏休み! という気分を味わうことができました。でも、それは今日で十分堪能しました。なので地球よ、そろそろ冷えろ。

 さて連続で感想を書く訳ですが、結局また新書の感想。次こそは小説にしよう、これは決定事項。でも、最近はこれ! と思えるような小説と出会えないというのも、また本音。

 『「おろかもの」の正義論』小林和之/ちくま新書
 あらゆる権威は失墜し、そして誰も「絶対の正義」など信じなくなった。「正義」の名の下、憎悪が戦火を拡大する時代だ。だがそれでも、人は「正しさ」なしでは生きてゆけない社会的存在である。では、聖人には程遠い「凡愚」たる私たちは、「正しさ」について何を語りうるのか。本書では、脳死・臓器移植、死刑、愛国心、民主制、環境破壊と南北格差など具体的問題を素材に、価値観が鋭く対立する他者との間に「約束事としての正義」を築きあげる道筋を示す。現代の突きつける倫理問題をみずから考え抜く力を養うための必読書。(筑摩書房


 感動した。人生にとってかげがえなき本は限りあれども、ぼくにとってはこれがその一冊になる気がします。

 ぼくは以前に、「正義」はくだらないと言いました(この世の「正義」は偏見に満ち満ちている)。著者も同様のことを述べています。
 ――「『正義は勝つ』『悪を滅ぼして正義を示す』。よく見かける言い方だ。だが、もし正義がそのようなものでしかないとしたら、正義は悪に依存することになる。悪に勝ったり、悪を滅ぼしたりしないと存在することができないのだから。……『無限の正義』の名の下に、空爆をして『悪』を滅ぼす。いっしょに無関係の市民も殺す。『正義』とはそういうものでしかありえないのだろうか。だとしたら、『正義』なんていらない。殺すための理屈なんて欲しくない。」(P15)

 ぼくの場合はここで絶望して終わりだったのですが、著者は、「正義」とはそういうものではないと言う。
 ――「『正しさ』は……、人と人との間にある。そして人と人との約束事であるということは、主観でどうにでもなるということではない。約束事の中には、ほとんど揺るぎなく決定されるものもある。そして、見事に約束することもできれば、無様に約束することもできる。」(P14)(「正しさ」と「正義」は同義で使われている)
 つまり、著者は「正義」をよりよき社会のためのルールとして捉えている。スポーツにはルールがあるが、ルールなくしてスポーツは成立しない。「正義」もそのようなものであると。だから、「正義」を考えないで生きてゆくことはできないと。

 著者は続いて、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という難問に回答していますが、これには納得できない人も多いようにも思います。
 この回答をざっくばらんに説明してみましょう。人々は自らの欲求に従って行動しますが、もしみんなが自分の思うがままに行動するとなると、結果としては欲求を達成することができなくなります。たとえば、目的地に向かって車で走る人々がみんな、自分の思うがままに走ろうとしたなら、もう道路は大混乱、あちらこちらで渋滞や事故が発生し、永遠に目的地に到着することはできないでしょう。そこで、道路は左側を走り交差点では信号に従うという「正義」=約束事をすることで、できるだけ多くの欲求が達成できるようになります。このように、「正義」は欲求を調整して最大化する役割をもつ。ところが、「人を殺したい」という欲求は、それが達成されれば他方の欲求を全否定することにつながる。これは調整原理である「正義」とは相容れない。よって、人を殺すことは「正しくない」(これは道徳的な悪とは違うことに注意)。

 ただ、著者は「人を殺してはいけない」ことは「絶対的な正義」だ、絶対に許されないのだと主張しているのではありません。そのことは、「『正しさ』は人に理解されてはじめて『正しさ』としての力をもつ。納得して『正しい』と思うことによって人は規範に従うのだ。」(P14-15)からも明らかなことだと思います。だから、納得できないと言う人は、「人を殺しても構わない」と考えてもよい、それは自由だということになります(思うとやるは別問題ですが)。
 ――「本書ではあなたを説得しようとは思わない。むしろ逆だ。考えることは自由になることだ、とわたしは思っている。ある具体的な問題について考えを積み重ねることは、こだわって視野が狭くなることではない。多くのことを知り、新たな可能性を見いだし、自分が知らないうちにとらわれていた思いこみから自分を解放することなのだ。」(P19)

 残り大部分では各論的に、脳死、臓器移植、死刑、愛国心、民主主義、環境問題、貧しい国への支援などの問題について著者なりの「正義」、つまりどうすればよりよい社会をつくりあげられるかが語られています。それらに関してはこの記事も既にだいぶ長くなったので、省略します。
 ぼくは「何が正しいのか」ということを考えるのがとても好きなので一気に読み進められましたが、人によっては、そんなものはそれぞれの価値観によって違うのだから考えるだけ無駄だと放り出してしまうかもしれません。しかし、著者は次のように言っています。
 ――「われわれは、同じ人間だ。でも、考え方、感じ方は同じではない。そういうわれわれが、できれば仲良く、少なくとも傷つけ合うことなく生きていくにはどうすればいいのだろう。主観を超えた『正しさ』は、それぞれの価値観自体ではなく、異なった価値観の調和だ。そう、違いがあることは希望でもありうる。和音を思い浮かべてみよう。単純なド・ミ・ソの和音でいい。あなたはドの音を響かせてほしい。わたしはミの音を奏でよう。もう一人にはソの音をお願いしよう。同じ音では和音にならない。それぞれが違う音で奏でるからこそ和音が響く。オーケストラのことを考えてみよう。同じ楽器をいくら集めてもオーケストラはできない。チェロはチェロの、フルートはフルートの、トランペットはトランペットの、それぞれ独自の音色をもっているからこそ、オーケストラが成り立つ。『正しさ』の理想は、オーケストラの交響楽だ。それぞれが異なり、もっとも自分らしくしていることによって、美しい音楽を奏でることだ。いうまでもなく、理想までの道程は遠い。だが、出発点は明確だ。価値観の違いを認めること。これは終わりではない。『正しさ』の探求はここから始まる。」(P51-52)


「おろかもの」の正義論「おろかもの」の正義論
(2004/12/07)
小林 和之

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 たったこれだけでも、本書の素晴らしさを感じてもらえると確信する。

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