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右手で描いた暇つぶし  語り部田宮My小説を載せていきます。ただ、それだけだと寂しいので、ぼくが日々感じたことや考えたことを徒然なるままに語りますね。 

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自分は学問に何を求めるのか、ということ

   ↑  2011/10/20 (木)  カテゴリー: 徒然日記
 どうも田宮です。

 朝の3時に寝惚けながらネギをぶった切っていたら左の親指の肉もいっしょにさっくり切ってしまいました。いやーびびりましたね。まさかあんなあり得ないレベルで血が溢れ出すとは。ネギが一瞬で鮮血に染まりました(ネギはその後美味しくいただきました^^)。しかしアドレナリンがどばどば出ていたのか、まったく痛みは感じず。恐ろしいくらい冷静な動きで、ティッシュで親指をぐるぐる巻きにし、それをさらにガムテープでぐるぐる巻いて固定、ついでに手首にも巻いて血を止める、その間およそ15秒もかかっていない気がします。そして案の定ティッシュが真っ赤っか。さすがの私もドン引きです。
 それでも幸いなことに1時間後には血もほぼ止まりました。ただし、現在貼っているカットバンが徐々に赤くなっているため、まだまだ油断ができません。しかもだいぶ血を出したためか朝から貧血気味でした(チョコレートギブミー)。おまけにそれで免疫力が低下しているのか少し風邪気味かもしれません。ということで勉強も少しお休みしてみようかしら、と思いつつブログを書いている次第です。

 今回書きたいことは「自分は学問に何を求めるのか」について。

 今日の昼に友達と喫茶店に行ったのですが、そのときなかなか面白い話を聞けました。簡潔に言えば、歴史学科の勉強は今の社会にどう繋がるのかという話です。要は、大学の勉強って役に立たないんじゃ?ということですね。
 まあ大学で学んだことがそのまま社会で役に立つかと問われれば疑わしい。確かに、大学院や行ったり専門家にならないのであれば、大学で学ぶことは「教養」と成り果て、たいして活躍の場もないでしょう。社会人としては新聞の情報を知っていればそれで事足りるくらいですから、「国民の裁判を受ける権利を裁判官の裁判を受ける権利を考えるなら裁判員制度は憲法に反するのでは云々」なんて話をする機会があるはずもなく。
 つまり大学の「学問」などと言うものは多勢にとっては単なる「教養」に過ぎないのです。「教養」とは役には立たないが知ってればすごいものです。そんなものを勉強しているくらいなら、もっと役に立つものを学んだ方がよい、と考えて公務員などの試験勉強に走る人は法学部にも一定数います。しかし私は「教養」は大事だと思います。そもそも「教養」がない人は、話していてつまらない。これは人格に関わっている。太宰治の『正義と微笑』に次の言葉があります。

「もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものはいいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないと思っている人もいるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強はカルチベートされるということなんだ。カルチャアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事ではなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するということを知る事だ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまっていいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に直接役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、俺の言いたいのは。」

 私もそのように思います。知ること即ち考えることなれば、知らぬこと即ち考えることを得ず、考えぬ者何事を聞いても己の思想を表現できず、ゆえに益無し、しかれども、知りて考えず、知ったかする者の愚かなること最大なり。

 しかしながら、そもそもの問題として、まったく社会の役に立たない学問はないと私は思います。実践を伴わない学問は学問ではありません。だから私は哲学は学問ではなく、超学問だとたまに言うのです(実践はないが他の学問に影響を与えるという意味で)。数学がなければパソコンなどの電化製品は生まれなかったでしょうし、歴史学だって、例えば、マルクス主義は世界に大きな影響を与えましたが、あれは歴史を生産関係と生産力で捉える唯物史観から生まれた考え方であって、やはり歴史学が関係します。
 私はこういう学問の成果が現実の社会にどのような作用をもたらしているのか考えるのが好きです。逆に、そうでない部分はあまり興味がありません。法学でもときたま結論にまったく影響しない実益のない議論がありますが、あんな議論やっている人は頭おかしいんじゃないかと思っています。また、例えば天皇制にしても、仮にこれを廃止したときにどういう影響が出るのか考えずに、ただ人権があるから天皇制はダメと言う人はどういう神経してるのかと思います。

 まあ学問を社会に及ぼす作用から見るようになったのは、きっと私が「あらゆるものは幸福のためにあるべきだ」と考えているからですね。つまり、よりよい社会をつくるために学問はどう役に立てるのかという点が重要だと思っているのです。何と言っても、社会もまた個人の幸福のためにありますから。もっとも、必ずしも社会の幸福は個人の幸福と同じにならない。人を殺したいという幸福は、社会によって抑圧されます。できる限り多くの人を、できる限り幸福にすることが、社会の幸福なのです。
 
 以上より結論。「自分が学問に何を求めるのか?」私は学問に、社会をよりよくするための作用をもたらして欲しい。そのためにも、学問(に限る必要はありませんが)は社会にどのような作用をもたらしているか、よい作用をもたらすためにはどのような改善が必要かということを考えることが(便宜的に「社会作用学」とでも呼びましょう)必要だと思います。
 
 次はいつブログを書けるか分からないため割とがっつり書かせてもらいました。それではまた11月にでも。

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