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右手で描いた暇つぶし  語り部田宮My小説を載せていきます。ただ、それだけだと寂しいので、ぼくが日々感じたことや考えたことを徒然なるままに語りますね。 

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憲法を考えてみる:憲法改正に限界はあるか

   ↑  2011/12/09 (金)  カテゴリー: 徒然日記
 どうも田宮です。
 仙台もだいぶ冷え込んできましたが、なかなか雪は降らないもので、青森生まれの私としては、むしろ降ってくれた方が温かいので早く降れなどと思っています。

 さて、ずいぶんと厳めしいタイトルをつけましたが、これは、これから内容がおそらく法律をやっていない人にとってはややこしいものになるので、警告の意味を込めてみました。ただ、憲法というものはある意味で誰にとっても身近な問題でありますので、お暇であれば、いっちょやったるかと気合いでも入れて考えてもらえれば嬉しいです。まあやっぱきついと言う人は、感想だけ読むのもありだと思います。
 私がこれから書こうとしているものは、『論点探究憲法』(弘分堂)という本を読んで自分が考えたことです。図書館でなにげなく借りた本なのですが、これがめっぽうinterestingな本でして、色々と刺激を受けたので、いくつか面白そうなトピックを選んで、その内容を簡単に要約しつつ、感想でもブログで書いてみようかと思った次第です。

 では、今回は「1主権(山本一執筆)」(P1~)について書きます。

(要約)
 「主権」という言葉には三つの異なる意義がある。すなわち、対外的に国家が他の国家に対して独立していること、国家の統治権、対内的に国政について最高決定権を有していること、という三つである。これからお話しする「主権」とはもっぱら最後に述べた対内的最高決定権の意義であり、日本国憲法第1条に言う「主権の存する日本国民」はその一例である。(なお、このように意義が分化しているのは、もともと「主権」というものは全てひとまとまりで絶対主義的君主に掌握されていたところ、徐々に近代的民主主義国家へと発展するにつれて、それが少しずつ国民の手に渡ってきたという歴史的経緯のためである。)
 さて、初めに、日本国憲法においては明治憲法での天皇主権から国民主権へという大転換がなされて訳であるが、この国民主権の意味する所につき、戦後憲法学では激しい論争があった。
 一つの考え方は、国民とは国家の権力行使を正当化たらしめる権威であり、それに尽きるという考え方である。もう一つの考え方は、権威にとどまらず、国民が実際に国家の権力行使に対し関与できる仕組みの確保をも国民主権は要請するという考え方である。両者の違いは、次に述べる憲法改正の限界にも関連する。
 ここで少し国民主権論の歴史を遡る。フランス革命期においてアベシェイエスは、「国民が歴史の歯車を動かす主体」なのだという国民主権の原型となる考えを主張した。この考えによれば、国家内部では国民の意思のみがあらゆる法の源泉となり得るのであって、憲法もまた国民によって制定されねばならないこととなる。つまり、国民が「憲法制定権力」を有するのである。フランス革命での国民による旧法の打倒も、国民は新たな憲法を制定する力を有するのだという考えに裏付けられていたのである。
 このアベシェイエスの憲法制定権力論は、カールシュミットによって引き継がれてゆく。カールシュミットは、「憲法制定権力」と「憲法改正権」は厳然と峻別すべきものだと考えた。すなわち、「憲法制定権力」によって新たに生み出された憲法には揺るがすことのできないアイデンティティーが存在するのであり、その憲法によって認められたに過ぎない「憲法改正権」は、このアイデンティティーまでをも変えてしまうことはできないとした。このように、憲法には決して変えることのできない基本原理(Verfassung)が存在するという考え方は、「実質的憲法論」と呼ばれる。
 このカールシュミットの二分論が日本に受容されたことにより、次の憲法改正の限界が議論される。
 日本憲法学の多くの学者は、日本国憲法における基本原理とは、国民主権、基本的人権の尊重、平等主義の三つであると考え、これらについては憲法改正によっても変えることはできないとした。たとえば、日本国憲法では現在、憲法を改正する際には必ず国民投票を実施しなければならないとされている。ここでこれを国民主権原理の現れだと考えるならば、国民投票を憲法改正により廃止することはできないこととなる。対して、初めに述べた、国民主権とは国民が権威であることを意味するに過ぎないとする考え方によれば、国民投票は国民主権原理とは無関係ということになるから(仕組みの問題ではない)、これを廃止することも可能となる。
 もっとも、仮に憲法改正には限界があるのだとするにしても、適正な手続に基づいてこれらの基本原理に変更が加えられた場合には、もはやそれを無効と考えることは不可能であって、法的な意味において革命が生じたと評する他ないだろう。

(感想)
 わりと軽い気持ちで書き始めたんですが、要約にけっこう時間がかかったせいで(約30分も)、心が折れかけています。でも頑張って感想も書きます。
 とりあえずこの論文では、憲法制定権力と憲法改正権との関係から、憲法改正の限界へとつながっていますが、私はどちらかと言えば憲法改正には限界はないと考えている方です。私としては、憲法改正に限界があるとする考え方は、どうも国民を馬鹿にしすぎじゃないかと感じるのです。つまり、ひょっとすると、あほな国民があほをやって変えない方がよいとこまで変えてしまうかもしれないから、憲法の理念を正しく理解した俺様が何にも分かってない馬鹿な大衆に教えてやるという、そういう偉ぶったパターナリズムを感じるんですよ。

 しかしながら、私は、普遍的に正しい価値観(自然法)がそもそも存在するのか疑わしいと思っています。そのような考え方からすると、平等主義やらが基本原理だから変えてはいけないと言われても、「はあ? なんで?」としか思えないのです。そんなものは現在の私たち国民が納得して従うから通用しているだけであって、もしかすると将来的には「平等主義なんてくだらない」という基本原理が誕生する可能性もあるのではないでしょうか? それをありえないとかダメだとか考えるのは、現在を生きる私たちのエゴではないでしょうか?
 憲法の学者はたびたび「憲法の理念を後退させるものであって賛成できない」といった論法を使いますが、私は、少なくとも憲法改正の問題では、そのような初めに理念ありきの考え方は大きな間違いだと考えています。理念もまた変化し得るものです。その意味で、重要なことは、どのような理念が現実的にコンセンサスを得ているのかを探索することにあります。そうだとすると、憲法の理念と、コンセンサスを得ている理念とにくい違いを生じるに至れば、もはやいかなる原理も維持できないはずです。したがって、憲法の改正には限界がない。そもそも、限界があるとしても、改正されたらそれに従うしかないので意味がないですから、改正に限界がないと考えるのが素直だと思います。

 要するに、カールシュミットが間違ってんだよということになります。ちなみに要約には書きませんでしたが、ドイツやフランスでは「憲法改正権」は「憲法制定権力」の一態様だとされているようで、私もそれに賛成したいと考えます。そこには、理念とは国民によって選択されるべきものだという思想背景があるのではないでしょうか。
 ただし、全く国民の関与しない憲法改正制度に変えることはできないと思います。理念は国民が決めるべきであって、そのためには、国民に理念を選択する権利を与えねばならないからです。また、このような改正は、いわば現在の国民が将来の国民に対して自己の理念を半ば強制することですから、許されるべきではありません。

 以上により、私は、憲法改正には限界はないものの、国民が全く関与しない憲法改正制度に変えることはできないと考えます。

 後半がだいぶ頭をやられて支離滅裂の感もありますが、ここまで読んで下さった方にお礼を述べます。また面白いトピックがあれば書きますので、よければ覗いてみてください。ではまた。

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