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2012/08/11 (土) カテゴリー: 徒然日記
明日から実家へ帰省するため、少し書いておこうと思った。
8月手前にロースクールに入って初めての試験を終えた。結果公表はまだであるが、民法は死んだ。しかし、それを除けばまあまあであった。後期で民法を取り返せるよう夏休み中頑張ろうと思う。とりあえず、ロープラ民法は中々よい問題集である。もっと早めにやっておくべきであったが、しかし、試験の問題と類似するものは含まれていないので、どうせやっていても大して変わらんと、自分を慰めておく。
夏休みに入ってからは、ゼミを組んだりして問題をひたすらに解いている。やはり、自分の思うように時間を使える時期というのは大切である。こころの余裕が異なっている。
割と小説も最近はまた読むようになった。一日に一冊までではあるが。道尾秀介の『ラットマン』を昨日読んだが、これは微妙である。まずそもそも話として面白味を感じなかった。また、ラットマン(人間の隣に描けば人間に見え、動物の隣に描けばネズミに見える絵のこと)という題名がトリックのネタとして大きな部分を占め過ぎているのか、それとも私が登場人物の推理に「それくらいじゃそこまで推測するの無理じゃね?」というツッコミをし過ぎたせいか、いずれにしろ展開が読みやすく途中で飽きた。一転、今日読んでいた町田康の『告白』は完読していないが恐ろしく面白い。帰ってから読むのが楽しみである。
さていつまで経ってもタイトルの話題に移らないのも傍迷惑であるので無理矢理移す。無理矢理なのは友人のブログを読んでつい先ほど考えたことなので仕様がない。
平成24年8月6日が広島原爆の日であることは周知のとおりであろう。そしてこの時期に風物詩のごとく、「原爆投下は正しかったのか?」、「日本も核武装をすべきではないのか?」といった議論がビデオテープの巻き戻しみたいになされることも周知のとおりであろうか。
これらがある意味で非常に重要な議論である。しかし、他面で私は少しうんざりもする。原爆投下が正しかったかどうかなど、別段にどうでもよい。私には、戦争それ自体が、むさしさの塊のように感じられる。はっきり言って、戦争は最悪であるし、最悪の中でどうしようが、最悪は最悪のままである。例えば、太平洋戦争で宣戦布告をしなかった日本は卑劣である、という主張は、私になんとも言えぬ滑稽な印象を与える。宣戦布告をしようがしまいが、勝てば官軍である、戦争とはそういうものであると私は認識する。戦争はあらゆる悲惨さを正当化してしまうから、戦争は最悪にむなしい。だから、広島に原爆を投下したという理由でアメリカを憎む人に、原爆投下の正しさを議論し合う人々に、私は同様のむさしさを覚える。憎むなら、戦争それ自体を憎んだ方がよい。
それと比べると、核武装の是非はいくらか建設的な議論と思われる。ただ、これは前提が異なるとそもそも議論がすれ違う。つまり、戦争は防ぐのは不可能であると考えるか、それとも、戦争を防ぐことは可能であると考えるかである。前者のように考えるなら、核武装すべきと考えるのが当然であろう。しかし、率直に言って私は後者のように考える。その場合、核武装が戦争の抑止に意味があるのかが問題となるが、私は意味がないと考えている。したがって私は結論として核武装は不要だと考える。とは言っても、核武装に抑止力がないというのは、恥ずかしながらそこまで深く考えた結論でない。単に、現実として核武装をしたから戦争を避けられている国というのが思いつかないだけである。
とりあえず一人で語ることができるのもこれくらいである。ちなみに友人のブログで問題となっていたのは、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という原爆慰霊碑の解釈についてであった。私の解釈は以上に述べたことから明らかなように、「過ち」は戦争それ自体であって、下手な戦争をしたことではない。公式見解に賛成する。
8月手前にロースクールに入って初めての試験を終えた。結果公表はまだであるが、民法は死んだ。しかし、それを除けばまあまあであった。後期で民法を取り返せるよう夏休み中頑張ろうと思う。とりあえず、ロープラ民法は中々よい問題集である。もっと早めにやっておくべきであったが、しかし、試験の問題と類似するものは含まれていないので、どうせやっていても大して変わらんと、自分を慰めておく。
夏休みに入ってからは、ゼミを組んだりして問題をひたすらに解いている。やはり、自分の思うように時間を使える時期というのは大切である。こころの余裕が異なっている。
割と小説も最近はまた読むようになった。一日に一冊までではあるが。道尾秀介の『ラットマン』を昨日読んだが、これは微妙である。まずそもそも話として面白味を感じなかった。また、ラットマン(人間の隣に描けば人間に見え、動物の隣に描けばネズミに見える絵のこと)という題名がトリックのネタとして大きな部分を占め過ぎているのか、それとも私が登場人物の推理に「それくらいじゃそこまで推測するの無理じゃね?」というツッコミをし過ぎたせいか、いずれにしろ展開が読みやすく途中で飽きた。一転、今日読んでいた町田康の『告白』は完読していないが恐ろしく面白い。帰ってから読むのが楽しみである。
さていつまで経ってもタイトルの話題に移らないのも傍迷惑であるので無理矢理移す。無理矢理なのは友人のブログを読んでつい先ほど考えたことなので仕様がない。
平成24年8月6日が広島原爆の日であることは周知のとおりであろう。そしてこの時期に風物詩のごとく、「原爆投下は正しかったのか?」、「日本も核武装をすべきではないのか?」といった議論がビデオテープの巻き戻しみたいになされることも周知のとおりであろうか。
これらがある意味で非常に重要な議論である。しかし、他面で私は少しうんざりもする。原爆投下が正しかったかどうかなど、別段にどうでもよい。私には、戦争それ自体が、むさしさの塊のように感じられる。はっきり言って、戦争は最悪であるし、最悪の中でどうしようが、最悪は最悪のままである。例えば、太平洋戦争で宣戦布告をしなかった日本は卑劣である、という主張は、私になんとも言えぬ滑稽な印象を与える。宣戦布告をしようがしまいが、勝てば官軍である、戦争とはそういうものであると私は認識する。戦争はあらゆる悲惨さを正当化してしまうから、戦争は最悪にむなしい。だから、広島に原爆を投下したという理由でアメリカを憎む人に、原爆投下の正しさを議論し合う人々に、私は同様のむさしさを覚える。憎むなら、戦争それ自体を憎んだ方がよい。
それと比べると、核武装の是非はいくらか建設的な議論と思われる。ただ、これは前提が異なるとそもそも議論がすれ違う。つまり、戦争は防ぐのは不可能であると考えるか、それとも、戦争を防ぐことは可能であると考えるかである。前者のように考えるなら、核武装すべきと考えるのが当然であろう。しかし、率直に言って私は後者のように考える。その場合、核武装が戦争の抑止に意味があるのかが問題となるが、私は意味がないと考えている。したがって私は結論として核武装は不要だと考える。とは言っても、核武装に抑止力がないというのは、恥ずかしながらそこまで深く考えた結論でない。単に、現実として核武装をしたから戦争を避けられている国というのが思いつかないだけである。
とりあえず一人で語ることができるのもこれくらいである。ちなみに友人のブログで問題となっていたのは、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という原爆慰霊碑の解釈についてであった。私の解釈は以上に述べたことから明らかなように、「過ち」は戦争それ自体であって、下手な戦争をしたことではない。公式見解に賛成する。
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2012/08/11 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |コメントを投稿する 記事: 戦争で正しさを語ることのむなしさ
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