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右手で描いた暇つぶし  語り部田宮My小説を載せていきます。ただ、それだけだと寂しいので、ぼくが日々感じたことや考えたことを徒然なるままに語りますね。 

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「運命」とは感情だよ

   ↑  2012/12/10 (月)  カテゴリー: 徒然日記
 「私は自分の人生を『運命』のように感じている」、と言ったとき、その真意を理解してくれる人がどれだけいるのか疑問である。「運命」ほど、個人の人生観を反映する言葉はそれほどない。
 
 辞書で「運命」を調べると、
   超自然的な力に支配されて、人の上に訪れるめぐりあわせ。(大辞林)
 と書かれてある。これは、そのような事態・状況(シチュエーション)が、何度でも巡って来る、そうなるよう決まっている、ということであろう。しかしながら、この「そうなるよう決まっている」というとき、そこに「超自然的な力に支配されて」いるという必然はない。それは客観的にではなく、主観的になされるものであってもよいじゃないかということを、ちょっと分かりにくいかもしれないが、以下では説明してみよう。

 〔1〕カミサマ的運命論またはゲーム的運命論
 まず、神や天などの絶対的な存在があって、絶対的存在が人間を動かすというイメージを抱く人は多い。つまり、自分がどのように選択しようが、どれだけ自分の意思で選択したと考えようが、客観的に「そうなるよう決まっている」という考え方である。これが、引用した辞書にある、また一般的に共有されている「運命」の意義といってよいと思われる。
 さらにこれに類似した考え方であるが、私の友達の中には、人間はまるでゲームの中の登場人物であると考えている人がいる。つまり、ゲームの中の登場人物は、自分の意思で行動していると思っているかもしれないが、実は「プレイヤー」という上位存在がいて自分の行動を操作している、もしくは、あらかじめ入力されたプロブラム通りの行動をしているとするのである。カミサマ的運命論の現代っ子バージョンだと思われる。
 〔2〕偶然ではあり得ない的運命論
 しかし、最近ではカミサマなんていない、自分は自分の意思で行動しているのだと考える人も多いだろう。そのような人にとっては、偶然にしてはあまりに出来過ぎた現象を、「運命」と呼ぶ考えもある。例えば、海外旅行を計画して航空チケットも予約していたところ、身内に突然の不幸があったために予約をキャンセルすることになったが、後日その予約していた航空便が事故で墜落したことをニュースで知った時に、これは「運命」だというのである。
 これはカミサマ的運命論と混同されるかもしれないが、絶対的な上位存在を観念するか否かで異なる。
 そしてそのために、偶然ではあり得ない的運命論は、言葉の理解が正確でない。なぜなら、「運命」とは「そうなるよう決まっている」ことであるという点は問題がないところ、偶然ではあり得ないということは、どこまで行っても個人的な評価に過ぎないため、「たぶん、そうなるよう決まっている」という曖昧さを含ませているからである。このように「偶然」と「運命」を確率の程度の差に過ぎないと考えてしまうことは、「そうなるよう決まっている」ということからはやや離れてしまうのである。これはむしろ、「奇跡」と呼ぶのが適切である。
 〔3〕確信的運命論
 私も、カミサマなどというような絶対的な上位存在はいないと考えている。その点では、偶然ではあり得ない的運命論に共感する。しかし、「南半球の蝶のはばたきが北半球で竜巻をおこす」ともいわれるように、「偶然」の振れ幅はとてつもなく大きいものがある。したがって、どれだけ偶然だとは思えなくても、それはやはり偶然に過ぎないのであって、「そうなるよう決まっている」とはいえない。
 では、絶対的な上位存在がないとすると、「運命」という言葉は使えないのか。そうではない。
 ここで発想を転換しよう。客観的に「そうなるよう決まっている」のではなく、主観的に「そうなるよう決まっている」のだと。
 すなわち、何か選択をするとき、自分はこのような場合であれば何度だって同じ選択する、それ以外の選択はあり得ないのだという確信が芽生えたのなら、それは「そのように決まっている」ということができる。例えば、あなたが定食屋に入って、メニューを眺めてから、唐揚げ定食に決めて注文したが、そのときに、自分は何百何千回同じ状況が巡って来たとしても、必ず唐揚げ定食を頼むという確信があるのなら(ちょっとヤバい人だが)、そこで唐揚げ定食を注文することは「そのように決まっている」ことといえる。
 このようにして、「運命」とは、自分は何度だって同じ選択をするという確信を意味するのだと、私は考えている。だから、「運命」という言葉を誰かから聞いたときの印象が、おそらく他の人と異なっている。例えば、「運命の人」という言葉は、一般的には、その人と出会い愛し合うことが決まっているという客観的な事態そのものを意味すると思われるが、私からすると、それは、自分は何度生まれ変わってもこの人を愛するのだという確信、それほどに強い愛の感情を意味していると受け止めている。他方で、「運命は変えられる」、「運命の人を探す」などという言葉を見ると、なんだかそわそわしてしまう。

 「運命」とは感情である。こう考えたとき、最初に述べた「私は自分の人生を『運命』のように感じている」という言葉は、どのような意味になるだろうか。それは、私は何度生まれ変わったとしても、また同じような人生を歩むという確信を持っているということを、意味している。またそれは、自分の人生は何者の奴隷でもないということを、表現している。
 なお、感情を表す言葉のような形容詞には、なぜか「い」で終わるものが多いところ、「運命」も「い」で終わっているということを、確信的運命論のわずかばかりの根拠(ジョーク)に添えて、この話を終える。

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